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公庫の融資が決まり、本当に本当に自分たちにカフェがいよいよ 夢ではなくなりました。 それから本当に姉とほか一緒に作り上げたお二人と僕との4人で 寝ないで毎日話しました。 そしてひとつずつ夢だけでは無くなってきました。
その過程は今でもはっきり覚えています。
大事な経験であり宝物です。
内装のデザインも家具も全てオリジナルで作りました。 でも費用がなくて少しでも浮かす為に自分たちで床をはいで磨いて ペンキぬってかべも同じ様に…。 厨房機器やエアコンなど電化製品を少しでも安く浮かせる為に 噂を聞いては久留米まで厨房機器屋さんを探しにいきました。 そして、かなり値切りました…。今考えるとよく値切ったなあ。 酒屋さんも値切りました。 サロン(エプロン)やクッションカバーは姉の手作りです。(サロンは 10年近くなった今でも使っています。もうボロボロですが。) メニューや看板も全て手作りでした。 ご飯食べる暇がないのでみんなでうどんを出前をしました。(カフェで 出前のうどんを取ったのはぼくらくらいじゃないかな…) そんなに値切っても元々飲食店でない場所に水回りから作るのは どうしても費用がかかりました。
そんなこんなだからみんなへろへろでした。 途中で僕も過労で倒れたりしました…。お恥ずかしいですが。
ただ…まだどうしても決まらないものがひとつだけ…。 それはお店の名前でした。 本当に決まらずに保健所の審査の時も「カフェ(仮名)」で申請 したほどです。
毎日、姉と2人工事が終わっては家で2人で話し合ってはいたので すが決まらず…。 本当に難しいものですね。名前は…。 でも決まったのはほんの些細な事でした。
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作戦といってもとても陳腐でしたが当時のぼくらにとってはそれが 精一杯でした。 まず、大きな模造紙を2枚買ってきてそれに大きな周辺の地図を 書きました。 そして友人に片っ端から連絡をして「シティ情報ふくおか」を始め 福岡の情報誌を集めてその記事から今泉、薬院の情報を集めて切り 貼りをして大きな今泉と薬院周辺の地図をつくりました。 いつの間にやら朝になっていました。
そしてその地図を携えて目を真っ赤にして担当の方に会いにいきました。
「先日から今泉、薬院はきびしいとおっしゃっていましたが、みて下さい こんなにいいお店がこんなにステキな場所があります。この場所は絶対 将来変わります。お願いします!ぼくらに融資をして下さい。」
これがぼくらの精一杯でした。
こうして最終の面接が終了しました。
あとは結果の電話を待つだけです。
悔いはない、本当に姉と心からそう思えました。 「駄目でも笑えるな…きっと」
そして、結果が決まる日。
しかし…電話はありませんでした。
そしてその日のお昼頃家のチャイムがなりました。
僕はその日はたまたま外出中だったので姉が出ました。
そこにはあの担当のおじさんがいました。
「木下さんいらっしゃいますか。」 「いえ、今はちょっと出ておりますが」
「そうですか…ではお伝え下さい。融資の件、満額決まりました。 そうお伝え下さい。近くに来たものですから…。おめでとうございます。」
そのおじさんの顔は僕の話とは違いとても笑顔だったそうです。
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お店をオープンするのは本当にたくさんの方のご協力が必要です。
話は少し離れますが、若かった僕は特に根拠もなかったのですが、「オレは できる。大丈夫。」と意味のない自信がありました。 でもお店をオープンが近づいて現実味を帯びてくるとそんな自信はすぐに 吹き飛び、いかに自分は本当に何もできなくてそして周りの人たちが助け てくれないとたいした事もできないと痛感しました。
それは大して今も変わっていないのですが(笑)
お客様にしても友人にしてもスタッフにしても常に感謝の気持ちをもっていかないといけないと思っているしこれからもずっと思っていたいです。理想ではありますが。
その人たちの中でも特に感謝をしている2人の人がいます。
あの人たちに出会ってなければいまのソネスやイコネはありませんでした。 2人とは当時2人が運営していた赤坂のギャラリーで出会いました。 たしか…約9年くらい前です。 出会ってその日にお店の夢を語った様な気がします。 2人は画家と設計のお仕事をされていたので、初めて会ったときから 姉とあの人たちとお店をつくろうと決めていました。
お店が本格的に決まってからは まったくの妥協を許さない2人だったので たくさん語り合い、けんかもしました。 そして全力をだしてソネスのお店の内装と家具のデザインをつくって くれました。
いまもたくさん助けてもらっています。ありがとうございます。
話がもどります。
国庫との交渉のなかでもぼくらはその2人になにかと相談していました。 相談というより作戦会議みたいなものでした。 だから毎回へこんだけどなんとかそのたびにみんなに励まされ気を取り直 して交渉に行けました。
数度行きましたが、その時点でまったく「貸す」の「か」もいってはくれ ず、 今思い出すとひょっしたらあの担当の方はぼくらの計画性を試していたのかもしれません。
どうにかして薬院の良さと可能背をあの人に伝えたい。 いわれてすごく悔しいけど、それに負けたくない気持ちである方法を思いつきました。
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